あなたっていつも荘

箸にも棒にもかからぬ生きた証と観劇記録を記してます

『ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい』読んで考えたこと

 

これ。

大前粟生著、河出。表題作を含む4編から成る。「ジェンダー文学の新星」らしい。

1本目『ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい』

「人を傷つけず、傷つけられず生きていくには」という迷いや葛藤が自分と重なるところが多かった。
主人公の言動や、囲まれている状況へのもやもやに共感する人が多いのではないかと思う。
以下ネタバレしかない。ページ数はKindleの。

簡単なあらすじ

主人公の七森は大学生で、ぬいぐるみサークルに所属している。活動内容は、ぬいぐるみと話すこと。

「つらいことがあったらだれかに話した方がいい。でもそのつらいことが向けられた相手は悲しんで、傷ついてしまうかもしれない。だからおれたちはぬいぐるみとしゃべろう。ぬいぐるみに楽にしてもらおう(187)」

そんな考えのもと設立されたサークルだ。

七森は、男や女として規定されることにモヤモヤしたり、恋愛感情がわからない自分に漠然とした物足りなさを感じたりする。誰かを傷つけていないか敏感で、うまく生きられない。

そんな七森がぬいサーの人たちと関わり、迷いながらも生きづらい社会を過ごす方法を見出していく、というような話だった。

作者はおそらく男らしさからくる生きづらさや特権性への葛藤があり、主人公の性格に反映されていた。

特に好きなところと考えたこと

私が印象に残っているのは、七森と、部員の白城が対照的な価値観を衝突させそうになるシーンだ。

七森は誰かを馬鹿にするような笑いや消費するような行動には同調しないし、あり得ないと思うからこそ、そんな嫌なことで社会が溢れかえっていることに度々傷つく。ぬいサーは、個人的な話題に踏み込まない優しさがあり、七森を守ってくれるような場所だと感じていた。

対する白城はぬいサーだけでなくイベントサークルにも入っているのだが、そこにはセクハラっぽいコミュニケーションも多いという。白城は以前「どうせ女は」といった発言をしていた。それはイベサーで形成された価値観ではないかと思った七森は「そんなサークルやめた方がいい」と諭す。

白城は「辞めない」と反論する。「落ち着くところにばっかりいたら打たれ弱くなる」「現実にはひどいことばかり起きるのが普通」だ、むしろ大きい物に乗っかって生きていくのが賢いのだと。

白木のようにに生きられたら楽だろうと思う。けど、もう覆せないほど自分にとって自然となった正義感が許さなくなってしまった。

だけど七森の生き方はしんどい。七森は途中「ひとに迷惑をかけるから、だれとも繫がっていたくなかった」と引きこもる。究極的だが、まいっている時はこれを最善に感じるかもしれない。

結局七森は、麦戸ちゃんと何でも共有できるパートナーとして(とはいっても恋愛的な意味を含まない)、ゆるやかな連隊によってに乗り越えるという選択を取る。

私も割とこれに近い生活をしている。だからこそ結末が不安に感じた。

同居人はむしろ私の考えが至らないと反省するほど確固たるイデオロギーに沿った生き方をしている。職場はかなりリベラル志向で、そうそうないというくらい居心地がいい。仲の良い友人…バイト先や高校の同級生…も、たぶん同じように悩みながら生きている。

出来るだけ、優しいところですごしていたい。攻撃されたと感じそうなところには属さない。SNSを見なければ今は優しい世界だけど、来年からは違う。このコミュニティにはいられない。

場所が離れても、ゆるやかな連帯を維持することはできるのか。ひどい社会を目の当たりにして、誰かから見たら打たれ弱い自分が、生きていくことはできるのか。大きいものに乗っからずにやり過ごせるくらい強いのか。分からない。「人を傷つけず、傷つけられず生きていくには」は、まんま自分の問いだった。

そのほかの気づき

ぬいぐるみに話すこととブログに書くことは似ていると思った。独り言みたいなものだから。けど受け止めてくれる何かがそこにあるという安心感がある。
はてなブログを読んでいて、感情がネガティブな方に振れる時はないから、誰かに対面で話して辛くさせてしまうようなこともここには書いて大丈夫なんじゃないかなと思う。

恋愛とか性的な話題を書いて、投稿する前にやっぱり消すみたいなことを何度かしていた。何で書かない方がいいと判断しているのか自分でもよくわかっていなかったのだけど、こういうことだと思う。

ぬいサーの BOXでは恋愛や男女の話があまりされない。そういう話、楽しいけど、疲れてしまうから。消費したり消費されたりしているって、自覚してしまうときがあるから。(291)

自分で自分を消費している感じがする。消耗につながる。性に関する話をすると、寂しさが紛れてなんだか偉くなったように錯覚する。でもそんなことはない。そんな考えから解放されたいとずっと思いつつ、関心を完全に消し去るのは無理だとも思う。自分面倒すぎて草

それと、男女ペアの仲の良さを、カップルみたいと形容することがある。無意識にでも使わないようにしたい。「双子みたいだね」という例えは絆の深さを感じるし、真似したいと思った。


2本目『たのしいことに水と気づく』

収録作品。大きな盛り上がりがあった訳ではないが、こちらも共感に溢れ、安心できる話だった。
以下全部好きなところ引用。

生活の些細なことが、私には楽しいことなんだと気づいた。(1074)

 

みんな人間で、なにをいうのが、なにを聞くのが失礼になるかわからない。「恋愛」とか「男女」とか、主語が大きい話は、大きい分だけ、ひとを疎外したり、傷つけたりしかねなかった。私自身がそういった話題で傷つくというよりも、傷つくひとがいるだろう、ということが私には大事だった。私の心には私に想像することのできるものたちが私以上に幽霊みたいに住んでいて、私をかたちづくっていた。(1203)

 

そのころ──いまもかもしれないけど──私は SNS中毒のようになっていて、 SNSのトレンドに並んでいる悲惨な事件やそれへのひとびとの反応を見ずにはいられなかった。(1234)

 

誰と生きていくか、みたいなことを最近よく考えるので、ピックアップしがちだし、「お互いひとりでいるような感じでだれかといたいとき」はよく分かる。

「気の合うひととただ同じ空間にいたいときってない?」妹はそういった。「別に話したりしなくていい。むしろ、お互いひとりでいるような感じでだれかといたいときってない?」(1173)

 

妹がいっていた「お互いひとりでいるような感じでだれかといたいとき」というのは私にもあった。つらいとき、どうつらいのか話すことはできなくても、こわくないだれかがいてくれるだけで安心する。(1232)

長々と書いたけど1〜2本目がとても好きだ。